あきらめかけたとき

「いそげ!」ガリオンはふたりに叫んだ。「セ?ネドラが助けを求めてる――風呂場だ!」部屋からかけだす途中、隅にあった鞘におさまった普通の剣をわしづかみにした。
「なにごとだ?」シルクは外廊下にとびだしながら問いただした。
「わからない」ガリオンはさけんだ。「彼女が助けを求めてる」走りながらガリオンは剣をふって鞘からだそうとした。「風呂でなにかがおきたんだ」
 城塞の地下にある風呂場までの、たいまつに照らされた階段が永遠につづくように思えた。一度に三、四段つつ階段をかけおりるガリオンのあとに、シルクとブランドがぴたりとつづいた。形相もすさまじく、抜き身の剣を手にかけおりるかれらを見て、召使いや官吏がびっくりして道をあけた。
 最後の階段をおりきって、婦人用の風呂場にたどりついたが、ドアは内側から施錠されていた。ガリオンはただちに意志の力を召集し、鍵に焦点をあわせて命じた。「開け!」鉄のドアが内側にひらいて、蝶番《ちょうつがい》がふきとんだ。
 おそるべき光景が目の前にあった。レディ?アレルが肩甲骨のまんなかを短剣でひとつきにされて、タイルの床の上にくたっと倒れていた。湯気のたつ湯船の中央で、黒マントの痩せて背の高い女がなにか――力なくもがくなにか――を水中におさえつけており、もがいているものの真上に茜《あかね》色の髪が大きな扇のように広がっていた。
「セ?ネドラ!」ガリオンは叫ぶが早いか、剣をかざして湯船にとびこんだ。
 マントの女はぎくりとしたようにガリオンを一瞥すると、狂ったように水をはねとばしながら、怒れる王から逃げだした。
 セ?ネドラの小さな体がうつぶせのまま、ぐったりと水面にうかびあがってきた。ガリオンは苦悩の叫びをあげて、剣を投げすて、腰まである温かい湯をかきわけながら、死にものぐるいで腕をのばし上下にゆれている体をつかもうとした。
 ブランドは憤怒の声をあげて、剣を高く持ち上げ、湯船を囲むタイル貼りの通路を走りながらマントの女を追いかけた。女は湯船の向こう側にある狭い戸口をくぐって風呂場の外へ逃げたが、シルクはすでにブランドより早く、刃の長い剣を低くかまえて女のあとを走っていた。
 ガリオンは両腕に妻の体をつかむと、必死に湯船のはじへ進もうとした。かれは恐怖とともに妻が息をしていないことに気づいた。
「どうしたらいい?」ガリオンはうちのめされて叫んだ。「ポルおばさん、どうしたらいい?」しかしポルおばさんはいなかった。かれはセ?ネドラを湯船のわきのタイルの上に横たえた。動く気配はなく、呼吸もなかった。顔は青ざめた灰色に変わっている。
「だれか、助けてくれ!」ガリオンは小さな生気のない体をひしと抱きしめて叫んだ。
 なにかが胸の上でびくっとした。生の気配を死にものぐるいでさがしながら、妻の物言わぬ顔をのぞきこんだ。しかしセ?ネドラは動かなかった。小さな体はぐったりしたままだった。ガリオンはまた彼女をしっかり抱き寄せた。
 またも胸がびくっとした――心臓をなぐられたような気持ちだった。もう一度セ?ネドラを体から離し、その奇怪なはげしい動きのみなもとを涙にかすむ目でさがしもとめた。風呂場の大理石の壁にかかったたいまつのゆらめくあかりが、彼女の喉もとの銀の護符のぴかぴか光る表面に反射しているようだった。もしや――? かれはふるえる手でお守りをさわってみた。指がじんとし、おどろいて手をひっこめた。つぎに護符をにぎりしめてみた。銀の心臓のように、それが手の中でたよりない鼓動をきざんでいるのが感じられた。
「セ?ネドラ!」ガリオンは鋭く言った。「目をあけてくれ。死んじゃだめだ、セ?ネドラ!」しかし妻は身じろぎもしなかった。護符をにぎりしめたまま、ガリオンは泣きだした。「ポルおばさん」かれはしゃくりあげた。「どうしたらいいんだ?」
「ガリオン?」数百マイルのかなたから、ポルおばさんのおどろいた声が聞こえた。
「ポルおばさん」ガリオンはすすり泣いた。「助けて!」
「どうしたの? なにがあったの?」
「セ?ネドラが――おぼれたんだ!」溺死の恐怖がすさまじい一撃となって襲いかかってきて、ガリオンはふたたび大声をあげてすすり泣きはじめた。
「やめなさい!」ポルおばさんの声がむちのようにひびいた。「どこで? いつ起きたの?」
「風呂場でだよ。息がとまってるんだ、ポルおばさん。死んじゃったんだよ」
「泣きごとはやめるのよ、ガリオン!」その声がガリオンの顔に平手うちをくわせた。「息がとまってからどのくらい?」
「二、三分かな――わからないよ」
「一刻もむだにできないわ。湯船からは出したの?」
「うん――でも息をしてないし、顔は灰みたいな色になってる」
「ようく聞くのよ。肺から水を出さなくちゃならないわ。セ?ネドラをうつぶせにして、背中を押しなさい。普通の息をするように、同じリズムでやってみて、強く押しすぎないように気をつけて。赤ちゃんに怪我をさせたくないでしょう」
「でも――」
「言われたとおりにするのよ、ガリオン!」
 かれは物言わぬ妻をうつぶせにして、注意深く背中をおしはじめた。びっくりするほどたくさんの水が小柄な妻の口から出てきたが、あいかわらず彼女はぐったりしたままだった。
 ガリオンは手をとめて、また護符をつかんだ。「なにも起こらないよ、ポルおばさん」
「つづけるのよ」
 ガリオンはまたセ?ネドラの背中を押しはじめた。セ?ネドラが咳をし、かれは安堵のあまり泣きそうになった。ガリオンは背中を押しつづけた。セ?ネドラはまた咳こみ、そのあと弱々しく泣きはじめた。ガリオンはお守りをつかんだ。「セ?ネドラが泣いてる、ポルおばさん! 生きてるんだ!」
「よかった。もうやめていいわ。なにがあったの?」
「どこかの女が風呂場でセ?ネドラを殺そうとしたんだ。シルクとブランドが今そいつを追いかけてる」
 長い沈黙があった。「わかったわ」ポルおばさんはようやく言った。「それじゃ、聞いてちょうだい、ガリオン――注意して聞いて。こんなことのあとだから、セ?ネドラの肺はとても弱ってるわ。一番の危険は充血と熱よ。温かくして、安静にしなくちゃいけないわ。セ?ネドラの命と――それに赤ちゃんの命は、それにかかってるのよ。息がしっかりしてきたら、すぐにベッドに寝かせなさい。わたしもなるべく早くそっちへ行くわ」
 ガリオンはすばやく行動した。ありったけのタオルとローブを集めて、力なく泣いている妻のためにベッドを作った。マントで彼女をくるんだとき、シルクがむっつりした顔でもどってきた。すぐあとにつづくブランドは、はた目にもはっきりわかるほど息をきらしていた。
「王妃はご無事ですか?」番人は必死の面もちでたずねた。