おばあちゃまになりたい

エッセーおばあちゃまの、ある記事を読んで、衝撃を受けた。
幸福に関するものである。偉人の文言がそえられている。
数日が経って、ちょっと部分的に内容を忘れた。
認知症状が日常。
また、おばあちSCOTT 咖啡機ゃまブログに飛んでいき、知りたかった忘れていたパーツをを確認した。
そのページに、付箋を貼って、バイブルにしたい。


偉人はすばらしい。
凡人ではありえない名句を遺す。
そういう深いことばを読むのは大好きである。
偉人の文章を紹介してくれる記事を部分的に拾い読みする。
省エネのええとこどり。
努力ゼロで、良い教えに接することができる。

おばあちゃまにしてみると、「もう何度も読んだ本だから、どなたか、お読みになるんだったらどうぞ」
と、軒下ガレージセールのノリだろう。
「ご自由にお取りください」、というかんじで、「ご自由にお読みください」。


わたしは、クセがある曲者である。
ニオイが、きつい。
おばあちゃまのお年頃になるまでに、取れたらよいのだが、このニオイ、さらにキツくなっているかも知れない。

今日も、どなたかが引っ張り出してくれた過去?蝶?記事を読む。
自分ながら、いいこと書いてるなあ???と感動していたら、、、
ああ、最後あたりで、キツいニオイを発して自滅していた。
あのニオイさえなければ、高得点をあげてもよいのだが、あのSCOTT 咖啡機トドメで、すべてパー。

「嫌な奴」臭を放っていた。

こんなことがあったの、ヘマしているでしょ、わたしってあほでしょ~
わたしたち、同じだよねー、あ、ごめん、ごめん、わたしみたいなあほと同じなわけないよね~、
そう言っておきながら、最後で、どっか~んと、不意打ち逆転にもっていく。
逆転どころか、高い高い高い位置から、仁王立ちになって、見下ろす。
それが見えるのであります。
なぜなら、自分が書いているので、自分の深層心理はまるわかりなのである。
そのニオイにお気づきの方は、二度とお立ち寄りになることはないと思われるが、
意外に人間は、刺激を求めたり、怖いものみたさで、「本当は怖いグリム童話」的な痛さを感じたくなる。

いちばん、やっかいでダメな人は、「バカなくせにデキると思っている、バカ」
二番目に、やっかいでダメな人は、「デキる人間が、自分はデキると思っている人」
三番目は、「バカが、自分はバカだと自覚している人」
では、四番目として、
「デキる人間が、自分はデキないと思っている」ケースは、ちょっと色を変えると、謙虚な人、ということになるのだろう。
でも、わたしは、そんな謙虚な人は、認識がオカシイと思う。
デキるのに、わざとデキないと自覚しているのは、現実をジャッジする目として、正確に判断できていない。
事実を歪めることになる。
バカな人が自分をデキると思い込むのは、バカだからわかるが、
デキる人なら、自分がデキるか、デキないかは、わかるはずである。

「バカのくせに、自分がデキる」と思うケースはじつによくある。
世間に、勘違い人間は、ごろごろ転がっている。
デキる人間は、思っていても思SCOTT 咖啡機っているそぶりを見せないが、見せる人もいる。
「デキる人間が、自分のことをデキないと思っている」という、そんな人にわたしは、会ったことがない。

デキる、デキない、は、成功体験や失敗体験の実例の積み重ねから実証され、感じることである。
失敗を重ねても、デキると思い込むバカは、自分への期待と自己防衛からそうなるのか。
では、成功を重ねているのに、自分はデキないと感じるのは、舞い上がらないように自分への戒め、慢心しない歯止め?
でも、一歩一歩着々と自信をつけて、ステップアップしていくだろうから、「デキない」と感じないはず。
つまり、(あんまり深く考えていないが)、「自分はデキるのに、デキない」と感じる人は、あまりいないのではないだろうか。
よほど成功体験をする機会に恵まれなかった人だろう。
それは、それで、嫌なニオイもしないし、眠ったままの子を起こす必要もないように思う。
「デキる」部分は、一生、目覚めないままに終わる。


なにを長々と書いて、自分を納得させようとしているのか。
自分への分析である。
「ダメなフリをして、じつはデキるんだよ~」というスタンスは、限りなく嫌われるということだ。
デキないならデキないで、最後まで、「デキない」を通すべきである。
へんに、ちょろっと、「じつは。。。」の部分を出すから、不快なニオイがきつくて、ぞっとするのだ。
後だしジャンケン、後手戦法。
卑怯ではあるが、結果的に勝った者が勝つのである。

勝った、負けたと言っている間は、お子チャマだ。
おばあちゃまの心境になるまで、あと15年近くある。
それまで、修業を積むのみ。
15年先には、ニオイのない、良いエッセーが書けるか???な?????